自分の身体は誰のもの?
先日、久しぶりに いつもお世話になっている医者に行ったところ、
コロナ(COVID-19)の情報がクリアファイルに挟んで待合室に置いてありました。
20年ほどの付き合いがあるけれど、こんなことは前代未聞だったので、少々驚いた。
中身はコロナウイルスとワクチンに関する情報で、
的確でわかりやすくまとまっている、からプリントしたそうな。
あの先生は、基本的に質問された時にしか答えないし、
どうしても必要な緊急時にしか、ああした方がいい、こうしてくれ
などとは言わないので、今回、わざわざ待合室に 資料を置くなんて、
よほど多くの人や患者さんから質問されるからなのか。。?
(それだけ関心が高いのか、皆不安なのか・・・)
それとも、よほど緊急事態だと捉えているからか。。?
きっとその両方なんだろう、と思った次第。
その資料は
こちらで閲覧出来ます。
その資料を見ながら、学生時代、薬の治験者のアルバイトをしていたクラスメイトがいたのを思い出しました。
新しい薬やサプリなどの効果や副作用を知るため、被験者になるアルバイトです。
結構バイト代がお高いのだ、と言ってました。
今の新型コロナワクチン、推奨されてはいるものの、まだ治験中の薬なんですよね。。
壮大な被験者数になっているワケなのに、バイト代も出なければ(笑、
接種後の症状などを確認、提出することもないという現状は、
普通に考えて、なにかへんだよな・・・・と思いました。
ところで、先日読んだ 能楽師の安田登さんの本に、こんな文章がありました。
筆者が肉離れになった際の体験からのお話です。
お医者さんに全治4週間と診断されたが2日後には舞台があるので4週間も待てない、
言われた診断名を一旦忘れ、飲み薬も塗り薬も使わない事に決め、自分のからだにたずね、
いろいろ試して、舞台を無事に勤めた、という体験です。
以下、少し長くなりますが、その続きが印象的だったので抜粋します。
【自分のからだに尋ねるよりも、お医者さんや本にきく、自分の身体を他人に任せて、言いなりになってしまいます。
そして、こういうことに何の疑問も抱かないし、むしろそれが当然だというのが現代の人の感覚です。
しかし、これは日本人にとってはかなり新しい感覚なのです。
古い日本語の「からだ」というのは 死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは、心と魂と一体のものでした。やがて、生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分から離れて対象化されるようになります。そうなると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。
それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようにもなります。
このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じる事ができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。】
『日本人の身体』 安田登著 筑摩書房
真っ先に頭に浮かんだのは、時節柄もあってか コロナウイルスとワクチンのこと。
身体を他人任せにしているから、情報や専門家の示す道だけを追いかけることになりやすい。
コロナのワクチンもそうだけど、
病院に行って診察を受ける時もその傾向が強い気がする。
専門家の情報は必要だけど、決めるのは自分だ。
自分の身体は誰の物か、自分のものになっているか 立ち止まって考えるのもいい機会なのだろう。
身体が不調になって苦しい思いをするのは、
政府でもなく、医者でもなく、製薬会社でもない、自分ですもんね。
ちなみに、著者の安田さんはちゃんと、専門家などがいるコトのメリットも書かれていました。
ようは バランスなのでしょう。
待合室の資料を眺めている時、
あの先生は、ワクチン接種者に起こりうる事を想定し、
もう既に その解決策や対処を考えて準備を進めているのだろう、と感じました。
安田さんの本の上記部分でもうひとつ印象的だった ”お互いの呼吸であわせるという境界線のあいまいさ”。
武術なんて、まさにその「境界線」がポイントのひとつだろう、なんてことも思いました。
コロナ(COVID-19)の情報がクリアファイルに挟んで待合室に置いてありました。
20年ほどの付き合いがあるけれど、こんなことは前代未聞だったので、少々驚いた。
中身はコロナウイルスとワクチンに関する情報で、
的確でわかりやすくまとまっている、からプリントしたそうな。
あの先生は、基本的に質問された時にしか答えないし、
どうしても必要な緊急時にしか、ああした方がいい、こうしてくれ
などとは言わないので、今回、わざわざ待合室に 資料を置くなんて、
よほど多くの人や患者さんから質問されるからなのか。。?
(それだけ関心が高いのか、皆不安なのか・・・)
それとも、よほど緊急事態だと捉えているからか。。?
きっとその両方なんだろう、と思った次第。
その資料は
こちらで閲覧出来ます。
その資料を見ながら、学生時代、薬の治験者のアルバイトをしていたクラスメイトがいたのを思い出しました。
新しい薬やサプリなどの効果や副作用を知るため、被験者になるアルバイトです。
結構バイト代がお高いのだ、と言ってました。
今の新型コロナワクチン、推奨されてはいるものの、まだ治験中の薬なんですよね。。
壮大な被験者数になっているワケなのに、バイト代も出なければ(笑、
接種後の症状などを確認、提出することもないという現状は、
普通に考えて、なにかへんだよな・・・・と思いました。
ところで、先日読んだ 能楽師の安田登さんの本に、こんな文章がありました。
筆者が肉離れになった際の体験からのお話です。
お医者さんに全治4週間と診断されたが2日後には舞台があるので4週間も待てない、
言われた診断名を一旦忘れ、飲み薬も塗り薬も使わない事に決め、自分のからだにたずね、
いろいろ試して、舞台を無事に勤めた、という体験です。
以下、少し長くなりますが、その続きが印象的だったので抜粋します。
【自分のからだに尋ねるよりも、お医者さんや本にきく、自分の身体を他人に任せて、言いなりになってしまいます。
そして、こういうことに何の疑問も抱かないし、むしろそれが当然だというのが現代の人の感覚です。
しかし、これは日本人にとってはかなり新しい感覚なのです。
古い日本語の「からだ」というのは 死体という意味でした。生きている身体は「み(身)」と呼ばれ、それは、心と魂と一体のものでした。やがて、生きている身体が「からだ」と呼ばれるようになったことで、からだは自分から離れて対象化されるようになります。そうなると、自分自身との一体感が薄れるので、専門家である他人の手に委ねても平気なようになるのです。
それだけではありません。「からだ」の語源である「殻」のように、自分の周囲に強固な境界を設け、他人との壁を設けるようにもなります。
このような壁が強いと、能をはじめとする古典芸能のほとんどは演じる事ができません。古典芸能は、楽譜も曖昧なものだし、指揮者もいない。お互いの呼吸で合わせていきます。しかも、その場その場で。】
『日本人の身体』 安田登著 筑摩書房
真っ先に頭に浮かんだのは、時節柄もあってか コロナウイルスとワクチンのこと。
身体を他人任せにしているから、情報や専門家の示す道だけを追いかけることになりやすい。
コロナのワクチンもそうだけど、
病院に行って診察を受ける時もその傾向が強い気がする。
専門家の情報は必要だけど、決めるのは自分だ。
自分の身体は誰の物か、自分のものになっているか 立ち止まって考えるのもいい機会なのだろう。
身体が不調になって苦しい思いをするのは、
政府でもなく、医者でもなく、製薬会社でもない、自分ですもんね。
ちなみに、著者の安田さんはちゃんと、専門家などがいるコトのメリットも書かれていました。
ようは バランスなのでしょう。
待合室の資料を眺めている時、
あの先生は、ワクチン接種者に起こりうる事を想定し、
もう既に その解決策や対処を考えて準備を進めているのだろう、と感じました。
安田さんの本の上記部分でもうひとつ印象的だった ”お互いの呼吸であわせるという境界線のあいまいさ”。
武術なんて、まさにその「境界線」がポイントのひとつだろう、なんてことも思いました。