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Q&A 武術はアート?戦いなのに「舞い」?
◆「舞」っていうと、舞踏を連想しちゃうんですが。。

■「舞い」というと やわな印象を持つかもしれませんが、決してお遊戯ではないですし。。。究極の動きはまさに「舞」に見えるんじゃないかな。無駄がないということですね。

 ----- 以前読んだ本の中で、<武術=舞>というシーンがあったので、ちょっと挙げてみます。

○上橋菜穂子さんの小説に『闇の守人』 というのがあります。

※これは 短槍使いの女用心棒バルサが、精霊の卵を生みつけられた一国の皇子チャグムを救ったことから始まる 一連のファンタジー冒険シリーズの第2作目。
このシリーズは、その短槍使いと皇子が繰り広げる冒険物語で、かなり面白いです。大人から子供まで楽しめ、私も夢中になりハマりました〜。(一部がNHKでアニメ化されてました。)

『闇の守り人』では、故郷に戻った女用心棒が、一番の短槍の使い手を決める決闘に臨むのですが、その最高の使い手同士の戦いを、「槍舞」と表現してました。

また、女短槍使いが、修行中に義父の「ジグロと稽古をしているうち、あんなふうにたがいの技がからみあい、ひとつの流れになってしまったのだ。そのときジグロがなんともいえぬ目でバルサを見てつぶやいたのだった。『これは槍舞だ。.....お前の技は、とうとう、ここまで達した...』と。」(本文より抜粋)という表現もありました。
槍舞について、「槍はうなりをあげて、すさまじい速さでたがいに攻撃しあっているのに」、「舞を待っているような心地だった」と書かれていて興味深いです。  (「闇の守人」上橋菜穂子著 新潮文庫)


○司馬遼太郎さんが書かれた『余話として』 の中に、江戸で剣術修行し名人となった
 会津藩士剣術指南役「森要蔵」とその息子「寅雄」の描写があります。

森要蔵という人は温和な人でしたが、歴史の流れの中、会津藩藩士だったために戊辰戦争に巻き込まれていき、最後は官軍との戦いで砲撃を受け、散っていきます。
  以下本文より抜粋(「余話として」 司馬遼太郎著 文春文庫)
 
「この鉄砲撃のために森要蔵は隊員の大半を失い、あとは攻め上ってくる官軍に対し、山上から駆けおとすような斬りこみをかけるしかなかった。その先頭には、つねに要蔵とその息子の寅雄が立った。(中略)父の要蔵が危なくなると息子の寅雄がかけつけ、息子が包囲されると父親がかけつけて囲みをやぶり、その両人の運動を山麓から見あげるとまるで舞をみるようであった、と板垣退助がのちに語っている。」

■自分の力を存分に出しているときに、ふと 今いる自分の周りの 宇宙や自然の大きな流れと一致して頭の中が真っ白になってる時って、
スポーツやっていた人、何かを夢中でやったことのある人なら判ると思うんですが、、、
相手も自分もそういう状態になって戦う=剣を交わすと、
そこにハーモニーが生まれる、、、、そういう気がするんです。

そのハーモニーはかなりシビアな緊張感の向こうにあるハーモニーで、
そして、それが「道」、この場合は「武道」のエッセンスでもあるかなあと。。
そう考えると、武道の「道」も、茶道の「道」も同じだと思うのです。
それが、道=アートなのかな、と思います。

武道のことを、英語ではマーシャルアート(martial arts)って言うでしょ。
なんで武術がアートになるのか、ずっと不思議だったんですが、
「究極のハーモニーの表現」ととらえると、何だか判る気がするような。。。。
深いです。面白いです。
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