この数日、4月10日の座学用のレジュメを作ってます。
といっても メモ程度で文章びっちりじゃないのですが。。
文章にすると、かえって意味が浅くなったり、言葉が届きにくいことも、、
特に、身体と精神を使う武道では、起こりがちだと思うのです。
どう受け取るか、なにを吸収するかは参加者の皆さん次第とはいえ、
地に足着いた日常生活のヒントになれば これはもう、ホントに幸い、ハッピーです。
カラリパヤットゥを通じて肌身で感じる日本の文化の一端も
わたしの解釈ではありますが、お伝えしたいと思ってます。
なぜ 日本の文化とカラリパヤットゥが並ぶのか、、と言うと。。。
インドのカラリパヤットゥ道場では、西欧人と交流する機会が多いのです。
彼らから、いろいろな質問を受けるたび、武道や禅が根付いている日本文化って、
地に足着けて平和に、寛容に 過ごす社会としての土台が出来ているのかも?
実は精神的に進んでいる国なのかも、と感じてきたからなのです。
う〜〜ん、うまく言葉で表せてないかも。。。^^;
彼らの中には、空手や他の武術の経験者も多く、
いきなり漢字を見せられて、意味を教えてくれ、、なんて言われたこともありました。
彼らから受ける質問で、ハッと気がついたり、調べたことも すごく沢山あります。
例えば、
「あきこは、日本人だから『禅』には日頃から親しんでいるでしょ?」
といわれ、
「は? 禅が日常?? そうかなあ〜〜?あれれ、、座禅くらいしか知らないわ。。」と
自分が禅を知らないことに気がついたり。。。。
ある時は、空手経験者から、
「あきこ、『無心』ってのは空っぽの心なんだろう?」と いきなり座禅を組む姿で尋ねられた。。
「は?いや、、エンプティではなくて、何もこだわらない心ってことだと思うよ。」と言うと、
「こだわらない?気にしないように耐えるってことか?」
「いや、耐える事ではなくて、気にする心を持たないこと。」
「よくわからない。例えば怪我をして痛くても、『無心』と言って痛さを感じなくするんだろう?」
「う〜〜ん、それも言えるかもしれないけど、執着心が全くない状態のことだと思う。」。。
「それは 心がからっぽと同じじゃないのか?僕の行っていた空手道場では、『無心!』と号令を掛けて、なにも考えないようにするんだ。これは正しいだろう?」
質問を受けると、全て言葉で細かく説明しなくてはならないのですね。。
それって、結構キツイ。。。
で、英語力の問題、私の知識不足、生きている文化の違いから
言葉のあやのような問答になり、、どちらかが唸ったり、尻切れトンボで会話が終わることもしばしば でした。
極端な話、、、西洋では常に「自分」を主張させる事が日常的のようで、
常に『何か』を『自分』が選んで、しかもそれを説明する文化 なのかも、と感じたりしました。
それって、『無心』には、ちょっと遠いかもしれない、
日本にいて それほど”自分が!”、 ”自分が!”って主張しなくてもよいのは、
好意的にとらえると、
他者との距離感のある融和が前提になっている世界なのかも、、
なんてことを 頭の中で あれこれ めぐらしたりしました。
で、いきなり すっ飛びますが、
武道の精神って、霊性の向上とも言われ、結構スピリチュアルでもあるんですよね。
そんな武道を学ぶには、日本はもってこいの風土じゃないか、とますます感じてます。
礼節というのは、他者との距離を保つこと 他者との境界線の認識だし、
けじめをつける、というのは、その時点で執着を手放すこととも解釈できるし。
などなど、、貴重な要素が 染み透っている文化じゃなかろうか。。と。。
インドで出会った彼らにも言われたけど、日本って武道精神の息づく武術大国、
やっぱり「Japan is a Country of Martial Arts!」だよねっ♪
なんてことも お話したいです〜。